雑談の力

男は理性・女は本能?

人が寄った時一つのテーマに沿って論理的に語るのが「会議」で、自由にあれこれ喋るのが「雑談」。全ての人に当てはまらないが、男性は前者が得意で女性は後者が得意な傾向がある。筆者の場合中立でどっちでもない、というかどっちも同じように面倒だった。はるか昔、小中高生だった頃には会議はできても雑談のできない子供だった。女の子たちがかたまって話す内容は、それこそつまらないことで、同級生の誰と誰が恋仲で、今どこまで親密になっているか、あるいは別れたか、意中の彼がフリーだから私にもチャンスがあるとか妙なことを言い出す子もいて、いたたまれなかった。

男の子は、会話に結論を求め、女の子は話の内容よりも、そのテーマで会話そのものを楽しんでいる。しかもテーマがコロコロ変わる。男子と女子では会話が成立しない。だから要所要所で行き違いがおきる。オチのない話は無意味だと思っていたので筆者の会話の相手は同性の女子より、男子だった。

雑談を苦でなくなった時期

そのようにして幼少期・少年期を送った筆者が雑談の重要性に気づいたのは。子供ができてからだった。特に初めての子供を育てるとき、同じ立場のお母さんと気持ちを分かち合い、子育て情報を得るには、雑談からだった。定期的に保健婦さんに相談できる機会もあったが、あくまで自分の疑問や困っていることに応えてくれるだけで共感はない。親や夫の言うことなどなんの力にもならず、子育ての苦労を分かち合い共感があり、自分の行動に活かせるのは同じ立場のお母さんとの「雑談」だった。筆者はその頃を境に雑談をするようになった。子供が長じて小学校に上がり、中学、高校と進む都度、同じ立ち位置のお母さんたちと雑談をして共感を得て自分の子育てや教育に自信をつけていく。

フォーマルとインフォーマル

日本人は会議好きだ。会社でも朝イチ会議と称してフォーマルな場を作る。資料を作りお茶を出し、どの顔も神妙で登壇者の声だけが響く。これも全てそうだとは言わないけど、会議は儀式(ceremony)だ。仕事に入るための気持ちのスイッチを入れるための装置だ。朝礼などはその最たるものだ。仕事をしている人なら、自分のやるべきことはわかっているし、むしろ会議だの朝礼だのと時間を取られることで時間配分が狂ってくる。勤務時間は有限なのだ。違う話になってしまうが、その狂った時間配分が残業をいう形となって労働者を疲弊させていく。非効率この上ない。

仕事を離れた場所で、休憩時間や昼休みで打ち解けて話すのが「雑談」で、インフォーマルな場である。形式ばらない自由なところで上司のことを揶揄したり悪口にならない程度にあげつらったり、時に新しいアイディアが生まれたりする。

雑談を侮るべからず

いまでも会議する場面はある。一同きちんと整列して、ご意見をどうぞと言われても、何か喋ったらたちまち注目を浴びてしまう状況で何か言える人はそうそういない。何かご意見をと議長がうながし、一人一人がそつのない短い返事をして、ヘタをすると、「では次回に持ち越します」なんてことになりかねない。おおいなる時間の無駄である。

ちょっと雑談しようという雰囲気の中で、「じつはさあ〜」と始まる会話の中にこそ何かのヒントがあるものだ。それを喋りっぱなしでなく、アイディアとして落とし込んでいく役どころの人がいれば、それはもうりっぱな「会議」となる。

どっちが優れているとかそういう話ではなく、アイディアは緊張した空間からではなく、気楽な空間から生まれるものだと言いたい。

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